「吉田松陰」松下村塾で使っていた一人称は? 【ことば検定スマート】
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「吉田松陰」松下村塾で使っていた一人称は?
【ことば検定】今日の問題と答え

グッド!モーニング「ことば検定スマート」の問題と答えを紹介しています。
林修先生が、「ことば」「漢字」にまつわる勉強になるクイズを出題して面白く解説してくれます。
*正式な解答が出るまでは、解答予想となりますのであらかじめご了承ください。

 

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ことば検定 問題 

 

きょう11月21日は、吉田松陰の命日です。
1859年安政の大獄で処刑されましたが、この時 松陰はまだ29歳でした。

処刑の前日に書き終えたのが「留魂録」という遺書です。
「この身は たとえ武蔵野の野辺に朽ちてしまおうとも 私の大和魂は留めておく」
こんな書き出しで始まり、最後は仲間の名前を列挙し、自分の志を受け継いで欲しいと訴えています。

そんな松陰が教えた塾といえば「松下村塾」です。
入塾に決まりは無く、12歳から40歳を超えたものまで、身分をさまざまな生徒が集まったのです。

今日は、そんな松下村塾で吉田松陰は塾生と話すとき、自分のことをなんと呼んでいたかという問題です。

 

「吉田松陰」松下村塾で使っていた一人称は?

   -ぼく
   -わし
   -なぜ千鳥足で白星

 

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ことば検定 答え

   -ぼく

 

 

 

 

 

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ことば検定  解説

きょうの解説

 

吉田松陰は、11歳から人に教えていました。
その歳で、長州藩の藩主に教えていたのです。

何しろ、松陰自身は超スパルタ英才教育を受けて育ち、もう11歳でも十分教えられる知識があったのです。
その後、松下村塾で教え始めたのですが、その教育は弟子たちとの議論を大切にしたものでした。

松陰は、弟子という言葉を使わず、ともに学ぶ仲間として対等な関係を大事にしていました。
そして、それは自分の呼び方にも表れました。

「僕」という漢字は、古代から漢文の中で、非常にへりくだった表現として使われてきたのです。
松陰は、それを弟子に対して使い、身分や立場の差を超えた連帯感を松下村塾に作っていったのです。

 

 

 

前回の問題

-これまで出題されたことば検定-

 

本日の検定クイズ

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